不況、増税、老後破産。資本主義で”死なない”為に知らなければいけない経済のコト | 世の中は必然的に不景気になり、不景気により企業が淘汰される事で供給量の調整が行われる

資本主義を生き抜く為に知らなければいけない”経済”のコト




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世の中は必然的に不景気になり、不景気により企業が淘汰される事で供給量の調整が行われる

 

ここまで、『資本主義』の3つのエッセンス「価値と使用価値」「剰余価値」「剰余価値が減っていくこと」について説明してきました。私たちのお給料が上がらないこと、そしてこの先も、ますます上がりにくくなるのは、労働者の努力が足りないわけでも、企業が“不当に”労働者から搾取しているわけでもなく、資本主義経済が支配する世の中の残酷なルールなのです。

では、そのルールの中で、私たちはどのように生き抜いていけばいいのでしょうか?それを具体的に説明する前に、ここでは『資本主義』の延長上にどのような未来が待ち受けているのかについて考えていきましょう。

企業の生産力は拡大する一方、消費者の購買力は低下し続ける

企業は、もっと利益を出そうとして、生産効率を上げていきます。生産される商品はどんどん増え、世の中は商品であふれます。現在の世の中を見ても、欠品している商品はごく一部で、お店に在庫があることが当たり前です。これらの在庫は、確実に売れるわけではありません。もしろ誰にも買ってもらえず、メーカーが最終的に処分する運命にあるものも多数あります。

このような大量生産は、日常的に行われています。これは単に生産能力が高まったということではありません。薄利多売になったため、たくさん生産し、たくさん売らないと利益を得られなくなったのです。

そのため、大量生産が無駄だとわかっていたとしても、止めることはできません。売れるチャンスがある限り、精一杯売ろうとしなければ利益を得られないのです。しかも「自社だけ適量に抑えれば、競合他社に市場を明け渡すことにつながる」と考えてしまうと、生産コントロールがさらに難しくなります。世の中が商品であふれかえるのは、資本主義の原則で、「当たり前のこと」なのです。

しかし一方、業務が効率化され、商品が大量生産される、まさにその過程で、機械化が進みます。機械化が進めば、必要な労働者数が減り、労働力の価値も下がります。つまり、お給料を受け取れる人の数が減っていくのです。同時に、もらえたとしても、そのお給料の金額は成熟社会では減少していきます。というのは、社会が進歩し、「労働者が生活するのに必要な経費」が減っていけば、労働力の価値(=お給料)も減るからです。

これはすなわち、企業の生産力はどんどん増え、労働者が受け取る給料総額は、どんどん減っていくということですね。世の中に提供される商品が増える一方で、それを買う国民(=労働者)の購買力は減っていくことを表しています。企業がもっと利益を増やそうとする行為自体が、やがては企業が利益をだせなくなる状況をつくり出してしまうということなのです。これは大きな矛盾です。資本主義最大のジレンマです。

企業がより多くの利益を求めて行動した結果、その行動そのものによって労働者のお給料は減っていき、消費者つまり企業にとっての「お客さん」が減っていき、商品が売れなくなってしまうのです。

ですが、企業は同時にこの利益を増やす過程において、「薄利多売」をしなければいけない状況に陥っています。テクノロジーは進歩しているので、数年前に比べると、より高度な商品を生産しています。しかし、生産技術も進歩・普及しているのでその商品はコモディティ(均質)になり、値下がりしています。

薄利「多売」しなければいけないのに、労働者のお給料は減っていて、それを買うことができません。ある商品が余っている、売れ残っているということではありません。これは社会全体でみて、「モノ余り」になっていることなのです。また、魅力がある商品がないから売れない、若者が草食系になったから売れない、ということでもありません。そもそも買う力がなくなっているのです。

消費者不在の「企業拡大」が起き始めている

多くの企業は「増収」「拡大」を目指しています。というより、増収や拡大を目指すのが資本主義に生きる企業の宿命なのかもしれません。しかし本来は、増収(売り上げを増やすこと)ではなく「増益(利益を増やすこと)」が目的のはずです。また、単に規模を拡大させることが目的ではないはずです。資本主義の中で生きる企業にとって、「拡大」もひとつの目的であるかもしれません。ですが、単なる拡大を目指してしまうと、企業がおかしいことになります。

企業は本来、消費者のために仕事をします。消費者が買ってくれる商品を生産し、消費者に届けるために仕事を行います。

しかし、組織が大きくなると、組織を維持するための仕事が増えていきます。現代の大企業を想像してください。大企業では、人数が多く、いろいろな部署に分かれています。ひとりひとりが判断できる範囲が狭くなっているので、ひとつのことを決めるのにも、たくさんの人に意見を聞きながら、まとめなければいけません。

要するに、ひとつの仕事に関わる人が多くなるのです。多くの人の意見を取りまとめなければいけないため、「会議」や「根回し」などの「内向きの仕事」が多くなってしまうのです。「内向きの仕事」とは、消費者には関係なく、「社内で必要だからする」仕事のことです。

たとえば、「根回し」。物事を決める前に、個別に重要人物を説得して、味方につけておくことです。何とか賛成票をつけたり、会議の場では言えない「ぶっちゃけトーク」をして、理屈抜きでお願いしたり、情に訴えて自分の味方になってもらいます。大企業ではこの「根回し」が重要になるケースがあります。そして、「根回し」と会議を繰り返して、多くの関係者が合意して話が進んでいくのです。

これは組織の中で仕事を進めていくには重要です。しかし、「根回し」や「会議」自体は、商品改良には1ミリも役に立たず、1円も利益を生まない内向きの仕事」です。他社よりも多く会議や根回しをしたからといって、他社よりも良い商品ができるわけではありません。

企業の目的が、「お客さんに喜んでもらう商品を提供し、利益を生み出すこと」だとしたら、社内会議や根回しは「ムダな仕事」になります。会議は、自分の社内で意識を統一し、仕事を前に進めるために必要な時間です。「ゼロ」にすることはできません。しかし、会議自体からは利益を生み出していないということも、事実なのです。

また、組織や生産規模を拡大させるためには、相応の設備や人員が必要です。消費者に商品を売るためではなく、拡大させるために必要な設備、人員が出てきてしまいます。もちろん、これらの設備、人員も組織を維持するためには必要です。しかし、それは消費者の需要からは切り離されています。消費者の需要がなくなったとたん、その膨れ上がった組織は一気に無駄になり、これまでの扱いからは一転し、「お荷物」となります

私たちが生きる資本主義の中では、「不景気」に大きな意味がある

資本主義経済においては、より多くの利益を得ようと、企業が努力を重ねます。その結果として利益率が下がったり、労働者(国民)が買える以上の商品が生産されていきます。商品は売れ残り、その企業の業績は悪化します。この状態が深刻化すると、企業は業績悪化にとどまらず、倒産することになります。

資本主義経済では、この流れは全体的に、かつ必然的に起こります。そして最終的に、世の中が「売れ残り商品」であふれ返ったとき、企業の倒産が連鎖的に引き起こされることになります。ただ、不況・恐慌は、資本主義の終わりではありません。これらには「意義」があります。むしろ、これらがあるから資本主義は継続が可能となり、ますます社会が発展していけるとも言えるのです。

1929年に世界恐慌が起こりました。このとき、アメリカの失業率は25%に達したと言われています。それくらい深刻な不況だったのです。しかし、すべての企業がつぶれたわけではありませんでした。「強い」企業質の良い企業消費者に愛されていた企業は生き延びたのです。

これに対して生産性の悪い、適当にやっていた企業はたちまち倒産しました。つまり、この恐慌によって企業は世の中から選別され、淘汰されていったのです。

好景気のときは、需要が大きいので、生産性が悪くて少々高い製品でも売れていきます。企業はそれほど経営改善に対して努力しなくても、問題が表面化しないのです。あまり優れていない人でも会社をつくって商売ができたのです。こうして世の中にはもはや「プロ」とは呼べないような「適当な会社」がたくさんできてしまいます。

しかし、恐慌が発生すると状況は一変します。企業は合理化を強いられ、より消費者に認められる商品(使用価値が高い商品)を生産するよう強制されます。それができなければ収益を上げることができず、店をたたむしかありません。このように恐慌によって「非効率」な企業は淘汰され、「効率的」な企業だけが残り、「次の時代」も生産活動を続けていくのです。これが不況や恐慌の「役割」であり、「意義」なのです。まさに、資本主義経済では、「不景気」に意味があるのです。

もし「不景気」にならなかったら?

ここで少し立ち止まって考えたいことがあります。それは、もし不況が起きるのを「妨害」されていたらどうなるか、ということです。

日本政府は、これまで景気対策に年間数兆円もの税金を投入し、景気を下支えしています。景気が悪くなると失業率が上がり、国民の生活が苦しくなるためです。たしかに、不景気になれば仕事は減り、ボーナスは減り、失業する人も増えていくでしょう。不景気になってほしくないというのは自然な発想ですし、不景気を避けられるのであれば避けたいと思うのも当然だと思います。

しかしその結果、「不況の役割」がなくなっているのも事実です。政府が補助金で下支えすれば、それだけ非効率な企業が残り続けることになります。私たち消費者からすると、私たちが払った税金を使って、質が悪くて高い商品を売っている企業が、残り続けるのです。

資本主義経済にとって、「不況」は一種の試験です。この試験に合格し、生き残った企業だけが次に進むことができていたのです。しかし現代では、各国ともこの試験をごまかしています。なんとなく「全員合格」を目指そうとし、「不合格」を出さないようにしています。よく、「受験をせずに、エスカレーター式で大学まで行ってしまうと、バカになる」と言われます。それと同じことです。本来は定期的に起こるはずの試験(不況)をなくしてしまい、全員合格の世の中にしてしまっているのです。

資本主義である以上、利益率が下がっていくことは避けられません。商品がどんどん市場に流れていく一方で、労働者の購買力はどんどん下がっていきます。となれば、生産した商品が売れなくなるときが必ずやってくるのです。そのときに、不況・恐慌を通じて、本来は企業が淘汰され、供給量が調整されるのです。

現在の政府が行っている景気対策は、過剰になった商品を、一生懸命に税金を使って買い支えているのと同じです。それではいつまでたっても経済が筋肉質になりません。資本主義経済の中で生きるのであれば、不況・恐慌も含めて受けれなければなりません。そうでなければ、私たちがいくら税金を払っても足りません。

資本主義経済は、「不況ありき」で考えなければいけない。それをもう一度、肝に銘じて覚悟する必要があると思います。

世の中が供給過剰になるにつれて、生き残れる確立も下がり続ける

不況や恐慌によって、資本主義の「脂肪(無駄な部分)」が取り除かれ、より強い企業、消費者に認められる企業だけが残るはずでした。しかし現在では、各国とも政府の力で恐慌を防ごうとしています。経済の混乱を避けるためですが、その「副作用」として、いつまでも無駄な部分が残り続けています。

そしてなお問題なのは、「いつまでたっても“供給過剰”の状態が続く」ということです。そして、供給過剰の状態が続くということは、「いつまでたっても“薄利多売”の状態が続く」ということなのです。

以前の記事内にて説明したように、商品には「使用価値」が必要です。ですが「使用価値」があるかどうかを決めるのは他人で、商品ができ上がってみないと、判断してもらうことができません。このテストに合格しなければ、モノはモノで終わります。商品となることができず、誰からも買ってもらえずに終わるのです。このテストに合格しなければ、商品になれずに死んでしまうのです。

この構造は現代でも変わっていません。18世紀後半から19世紀におきた産業革命の時代は、新しい生産技術が発明され、それにより生産能力が飛躍的に向上しました。これで商品の生産量が爆発的に伸びたのです。しかし、そうだったとしても、まだまだモノ不足の時代でした。人間の生活は不便で、不衛生。「あの商品がほしい!」「こういう商品があればいいのに!」と人々は常に考えていただろうと思います。

しかし、現代はどうでしょう?生きていくために必要なモノはとりあえずほとんど揃っています。さらには生活していくのに必要ない娯楽や贅沢品もあふれています。「モノ余りの時代」と言われても久しいですが、まさにどんな商品でも売っています。消費者が自分から「買いたい!」という商品はごく一部で、ほとんどの場合、企業が一生懸命売り込んで、やっと買ってもらっているというのが現状です

つまり、それくらい消費者が「使用価値」を感じる商品が少ないということ、消費者はすでに満たされていて、よっぽどのものでなければ、使用価値を感じないということなのです。現代でも生産されたモノが「商品」になるために(誰かに買ってもらうためには)は「命がけの躍進」をしています。それは変わりません。しかし、その躍進の結果、商品の生き残れる確立が格段に下がっているのです。

生き残る確立が下がっているひとつの理由は、消費者がすでに満たされているからです。ただ、それだけではありません。商品が供給過剰で、かつ玉石混交だからです。

消費者は、自分の欲求を満たす商品を買おうとしています。しかし、どれを買ったら良いのかがわかりません。目の前に商品がたくさん並んでいます。どの商品も「良い商品です!」とアピールしています。ですが、中には「ニセモノ」が含まれています。誰でもニセモノを買わされたくないので、身長になります。しかしそれでも、ニセモノを買ってしまうことは多々あります。買って後悔した商品、食べてみたら非常にマズかった観光地のレストラン、“タイトルに偽りあり”のビジネス書など、数多くのニセモノをつかまされてきたことと思います。

恐慌で質の悪い企業が淘汰されれば、必然的に消費者に選ばれる企業だけが残っていきます。ですが、現在は景気悪化を恐れるあまり、質の悪い企業でも残り続けられるような政策がとられ続けています。それがより消費者の不信を招き、企業のリスクを上げているのです。

そう考えると、税金を使って景気を下支えすることの「もうひとつの弊害」が見えてきます。一般的に、税金を投入して景気対策することに対して「将来に借金を残すから反対」という声があがります。つまり、自分たちの子供の世代に借金を残してしまう。自分たちは楽をしながら“ぬるま湯”につかり、子供たちにしんどい思いをさせてしまうということです。

しかし、もうひとつ別の問題があります。いつまでも供給過剰や“玉石混交”の状態をリセットせず、放置しているのです。子供たちがやがて大人になり、ビジネスを始めようとしたときに、この供給過剰状態がまだ続いていたらどうでしょう?圧倒的に稼ぎづらい状態になるのです。

多額の借金を抱えながら、ビジネスの難易度は格段に上がるのです。それがバラマキ政策、むやみに景気を下支えすることなのです。

リーマンショックが起こった原因

2008年、アメリカでリーマンショックが起きました。リスクの高い住宅ローンであるサブプライムローンの損失から、投資銀行のリーマン・ブラザーズが巨額の負債を抱えて倒産し、世界金融危機への引き金となりました。

2013年、中国でシャドーバンキングによる問題が深刻化しました。シャドーバンキング(影の銀行)とは、銀行ではない証券会社やヘッジファンドなどの金融機関を通した資金調達であり、銀行が企業や地方政府に直接お金を貸せない中国では、約300兆円もの資金が動いているとも言われています。近年はその投資資金がデフォルトになる事態が起こっており、連鎖的な金融危機の不安も取り沙汰されています。

2014年、ビットコインの取引所の大手であるマウントゴックス社が倒産し、大きな波紋を呼びました。ビットコインとはインターネット上で流通している電子マネーであり、いわば仮想通貨です。その取引所がハッカーに攻撃され、総額470億円ものビットコインが消失しました。

起きている現象だけを見ると、別々の事柄に見えます。しかしこれらの現象は、すべて共通の要素を持っています。それは、本来は何も価値を生み出さないものが「資本」として扱われた結果、引き起こされた事件ということです。

資本主義が成熟するにつれて、商品の利益率が下がっていきます。やがては労働者(=国民)の購買力を超えて商品が提供されることになります。その結果、商品が売れづらくなる世の中になります。消費者は、商品を買いたくても変えません。

また、お給料は上がらないし、そもそも雇用も不安定になっていきます。購買力がかなり小さくなっているのが今の日本だと思います。そのような時代背景の中では、「今度はあれを買おう!」という欲望さえなくなってしまうのではないでしょうか?

こうなると、いくら商品に魅力がない、消費者に訴えかけるものがないといって、企業がアイディアを絞り出しても効果は薄いです。最終的には、どんな商品を生産しても、これ以上稼げないという状態にいき着きます。資本の量を増やし、生産を拡大しても無意味となる、ということです。

つまり「資本が過剰」になるのです。単にある商品が供給過剰という意味ではなくて、「どんなビジネスをしても利益を増やすことはできない」ということで「資本が過剰」なのです。そうなると、もはや満足のいく利益を得ることができなくなります。こうなったらどうなるのか?資本家は利益を得ることを諦めるのか?

そうではありません。次は「擬制資本」に資金が向かうことになります。擬制資本とは、「本来は、価値を生むものではないのに、あたかも価値を生む資本として捉えられているもの」というものです。

たとえば、土地、株券、通過などです。これらは本来、何も価値を生みません。持っているだけでは何も起こりません。しかし、これらを持っていること自体がビジネスになるとわかった瞬間、これらは資本になるのです。「資本となる」というより、「売買したり、ビジネスに組み込むことで利益が出るから、資本のように扱える」という表現が正しいかもしれません。

現代では、土地を「資本」と考える人が多いです。また、重農主義の立場から見ると、農業が価値の源泉なので、農業の基礎である土地は「資本」と捉えられるかもしれません。しかし、『資本主義』の立場から見ると、土地は資本ではありません。資本主義では、労働者が付加価値を生み出す、人間が労働することでしか付加価値を生み出せないと考えられています。その観点からすると、土地は価値を生み出すものではないのです。

考えてみると、土地を持っているだけでは何にもなりません。そこに人間が働きかけるので、いろいろな商品(農産物)が生まれるのです。さらに言えば、土地が「資本」と考えられているのは、土地を誰かに貸すからです。土地を持っていれば、誰かに貸して地代収入(不動産収入)を得ることができるからです。そして、地代として借地料を得られるので、「資本」として認識されるのです。

さらに、地代を得られる土地を持っていれば、不労所得を得られます。その不労所得を目当てに土地が売買されることがありますね。その結果、土地を売買することからも、利益(差額の儲け)を得ることができます。それにより、もともとは価値を生み出すものではないにもかかわらず、利益を得られるのです。

株券も同じですね。通貨にいたっては、持っているだけでは何の利益も生みません。しかし、通貨の「値段」が変わるため、タイミングによっては売買して利益を得ることができます。そのため、「資本」としてみなされ投資対象になり得るのです。

資本主義が成熟すると、商品生産に投資をして得られる利益も減っていきます。少ない利益しか得られなくなるのです。その結果、新しい儲けネタとして擬制資本が注目されていきます。

現在、土地や株・通過などの金融取引は、商品取引とは比べものにならないほど膨らんでいます。本来、お金は商品を買うためのもので、商品を買うためにビジネスをし、稼いでいたはずです。しかし、今となっては商品取引からかけ離れ、「擬制資本」自体がひとり歩きしているのです。

こう考えると、リーマンショックが起きたのは歴史的必然と言えます。そして2013年から2014年にかけてビットコインなどの仮想通貨が注目され、やがて「破たん」したのも必然と言えます。そしてこれからも同じような「本来は何の価値も生まないもの」が資本のように扱われ、投資対象とされていくでしょう。しかし、すぐに化けの皮が剥がれて、「何の価値もなかった」ということが明らかになり、崩壊していくでしょう。

価値があるもの(商品)で利益を稼ぐことが難しくなっているため、価値がないものを取引することで、利ざやを稼ごうとする動きが出てくるのは、ある意味当然です。不動産バブル、株バブル、ビットコインなどの得体の知れないものはこれからも、間違いなく登場します。経済が不況によってリセットされ、ふたたび「商品」で稼ぐことができるようになるまで、新たな擬似資本が次々と考案されていくでしょう。

この社会変化が、個人(労働者)に与える影響とは?

かつて経済学の父アダム・スミスは自由競争こそが国民の利益につながると説きました。いわゆる「(神の)見えざる手」のことです。

アダム・スミスは、当時の既得権益層(国家、貴族や地主など)が自分たちの勝手に経済を操っていることに反発し、国民一人ひとりが自分の考えて自由に競争することが、国全体の利益になるのだと主張しました。自由がなく、非合理的な社会よりも、自由で合理的な社会の方がみんなのためになります。そういう意味で、当時のスミスの主張は正しかったのだと思います。

しかし、競争の段階が進み、社会が新たなステージに進化すると、自由競争は新たなデメリットを生むのです。そのデメリットは、労働者に対して、つまりほとんどすべての国民に対して降りかかることになりました。

自由競争が進めば進むほど、世の中にいい商品があふれます。
自由競争が進めば進むほど、商品は安く手に入るようになります。
自由競争が進めば進むほど、仕事は単純化され、複雑な知識は不要になります。
重労働は機械化され、体力的にも楽な仕事が増えます。 

しかし、まさにそのせいで、労働者のお給料が安くなっていきます。まさにそのせいで、生活が苦しくなっていきます。まさにそのせいで、単なる企業の歯車に成り下がり、働く幸せを感じることが難しくなります。資本主義が成熟していく過程で、労働者がどのような立場に追い込まれるのか、改めて整理をしていきます。

現場での分業が労働者を苦しめていく

資本主義では、仕事現場で分業が進むと、生産性向上の他にも、次のふたつが生まれるとしています。

①労働者の給料が下がる

分業が進み、仕事が簡単になれば、それだけ労働力の価値は下がります。というのは、それだけ必要な予備知識と予備経験が減るからです。

給料は、労働力の価値の対して支払われています。複雑な仕事は労働力の価値が高いため、給料が高い。というのは、複雑な仕事をマスターするには時間がかかるからです。いろいろなことを勉強し、いろいろなトレーニングをしなければいけません。その時間も長いですし、学校に通わなければいけないかもしれません。医者や弁護士の給料が高いのは、医者・弁護士が崇高な仕事をしているからではなく、準備期間が長いからです。職人芸でつくられた品物に高い値段が付けられるのは、それをつくるのにものすごい手間がかかるからだけでなく、その技術を身につけるのに膨大な時間とコストがかかるからです。

しかし、分業はその状況を変えます。分業が進み、全体の業務(100)のうち、自分が担当するのが「1」になったとしましょう。そうなると、複雑な仕事が簡単になり、簡単にマスターできるようになります。その仕事をするために必要な知識も格段に減るでしょう。単純な仕事ならトレーニング時間も短くて済みます。こうして、労働力の価値は低下するのです。

②労働者が休めなくなる

仕事が分業されると、各個人は全体の一部分を担当することになります。それはいわば「流れ作業」になるということです。そうなると、自分だけ休むということができなくなります。一定時間の中で一定量の仕事をこなさなければいけないわけです。ひとりが休んだり、さぼっていたら、上司や社長にだけでなく、仲間の労働者に対しても迷惑をかけることになります。

「この仕事をするのは自分しかいないから」といって、体調が悪くても、プライベートで大事な予定があっても休めない人を見たことがありませんか?ビジネス全体を滞りなく進めるようにコーディネートするのは、本来企業(経営者)の役目です。しかし、それを労働者ひとりひとりが自己管理させられているのです。

機械化の中では、労働者は単なる歯車になる

機械制大工業の下では、機械がほとんどの工程を行います。そのため、労働者の仕事が軽減して、労働者に幸せな生活をもたらすと考えるかもしれません。しかし、実際にはその逆の事態が起こることが多いのです。たしかに、重労働は機械がやってくれれば、人間の仕事が楽になります。しかし、一方で、労働者に対して「悪影響」も及ぼします。「機械化」が労働者に与える4つの悪影響について考えてみましょう。

①労働者のお給料が減る

労働者の仕事が軽減するということは、「労働者の価値」が減る、つまり給料が減ることを意味します。

先ほど分業で説明したことと同じです。今までと同じ時間だけ働いていても、仕事の内容が楽になれば、体力を回復させるのに必要な生活手段も少なくなるからです。ただし、仕事が軽くなったからといって、働く時間が短くなるわけではありません。機械化されただけで、労働時間は短縮されないのです。

また、機械化が浸透すると、世の中全般的に商品の生産性が高くなります。そうなると、商品は以前よりも安くなり、同時に「労働力を再生産するための生活手段」も安くなります。この点からも労働力の価値が下がります。

②ベテランが不要になる

仕事が機械化し、多くの工程を機械が担当するようになれば、人間は難しい仕事はやらなくてよくなります。つまり、職人のようなベテランはもう要らないのです。同時に、仮に長い間経験を積んでも、その仕事が機械に置き換えられてしまうと、労働者は単に機械を操作するオペレーターに成り下がります。オペレーターに熟練の技は不要です。昨日今日、仕事を始めた新人と同時に扱われるようになってしまうのです。

③資本家の立場が強くなる

機械化することで、仕事が簡単になれば、以前はベテランにしかできなかった工程でも、学生アルバイトなどの「初心者」ができるようになります。その結果、その仕事を担当できる人が増え、労働力の供給量が増えるのです。となると、需要・供給の関係で、また労働力の値段が下がります。

また、労働者がたくさんいると、資本家が“強く出る”ことができます。その結果、労働者はより悪い条件で働くことを強制されてしまうのです。資本家が労働者に対し、夜勤などの悪条件での労働を強要することも可能になります。現場が機械化することで、労働者の労働条件が悪化してしまう恐れがあるのです。

④機械化が加速する

機械化は、さらなる機械化を誘発します。仕事が分業されると新技術の発明が起こりやすいのと同様、機械制大工業においても新技術が発明されやすくなります。しかも、古い機械が新しい機械の発明を助けて新技術の改良はさらに起こりやすくなる。次々に生産性のいいものがでてきて、古いものはすぐに「使えなく」なり、さらにその古い機械について働いていた人も「使えなく」なります。そうすると、この労働者たちは失業する。

→労働力の供給量がますます増える(職を探している人が増える)
→労働条件がますます悪くなる(資本家の利益は増える)
→資本家は設備、機械にもっとお金をかけられる
→新技術が登場する
→ますます仕事を失う労働者が増える

という、(労働者にとっては)悪循環になるのです。機械制大工業は、一見、労働者の仕事を軽減するものに見えます。しかし、そうとは限らないのです。むしろ労働者の環境を悪化させるような性質を持っているのです。

19世紀前半、機械化が労働者を苦しめていたことがわかる象徴的な事件が起こります。イギリスの織物工業地帯で「ラッダイト運動」という機械破壊運動が起こったのです。産業革命で機械化が進んだ結果、機械に仕事を奪われ、失業の恐れを感じた手工業者・労働者が機械を破壊してまわりました。近現代でも同じことが起こっています。

1961年、アメリカで「過去5年間」に生産自動化が雇用にどんな影響を与えたかが発表されました。鉄鋼労働組合の報告では、この期間に生産性は121%増大した反面、9万5,000人が職を失ったといいます。まさに機械に職を奪われたのです。機械化が進めば、生産性は上がりますが、同時に必要な労働者の数を減らし、失業者を増やしてしまいます。機械に仕事を奪われていったのでした。

「ムーアの法則」

機械化の歴史を振り返ると、多くの労働者が職を失ってきました。この流れは現代も変わっていません。ただし、現代は機械だけでなく、「テクノロジー」に職を奪われているケースがあり、この流れはより加速していきます。

「ムーアの法則」をご存知でしょうか?「ムーアの法則」とは、世界最大の半導体メーカー、インテル社の創業者のひとり、ゴードン・ムーア氏が自らの経験則から提唱した理論で、「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」という法則です。つまり、1年半から2年で、半導体の性能は倍増するということです。あくまでも経験則なので、理論として確立しているわけではありません。

ここで注目してもらいたいのは、それほど早くテクノロジーが進歩するということです。「1年半から2年で、半導体の性能が倍増する」とは、一定のスピードで技術が進歩しているのではありません。グラフにしてみるとよくわかりますが、今年の性能を「1」とすると、1.5年後には「2」、3年後に「4」、4.5年後に「8」、6年後に「16」となるということです。加速度的に伸びているのです。この進歩は人類に多大な影響を与えます。

アメリカの調査では、ブルーカラー労働者の数が減少し続けている半面で、製造業部門の労働生産性は飛躍的に向上したという事実が明らかになりました。アメリカの製造部門における労働生産性は、1980年代初めには年率1%程度の伸びでしたが、テクノロジーが進歩し、コンピュータの自動化が進むことで、1990年代後半以降において年2.5%の上昇になったというのです。

テクノロジーが進化するからこそ、これまで実現しなかった商品やサービスが可能になり、人間の生活が「豊か」になります。しかし、ここでも「負」の側面があります。テクノロジーが進化することによって、人間の代わりにテクノロジーが仕事をするようになり、「人間不要」の世の中になっていくのです。

かつて、機械が導入され、労働者が解雇されていきました。機械が労働者の代わりに仕事をしたからです。ただしこのときに機械が取って代わったのは、主に肉体労働でした。いわゆるブルーカラーの仕事が機械に代替されたのです。

現代は、機械だけでなく、テクノロジーが人間の代わりに仕事をするようになりました。車を自動で運転するテクノロジーが実用化されつつあります。もし実用化されたら、プライベートで車を運転する必要がなくなるだけでなく、タクシー・バスの運転手も仕事を失うことになるかもしれません。

また、テクノロジーは、肉体労働だけでなく知的労働の仕事もこなします。つまり、ホワイトカラーの領域にまで入り込んでいるのです。

たとえば、すでにスマートフォンが外国語を翻訳する機能を備えています。まだまだ精度がイマイチですが、やがては人間の通訳と同じように適切な言葉に翻訳するようになるでしょう。リアル「翻訳こんにゃく」のようなものが出てくるのも時間の問題です。

このように、機械とテクノロジーが人間の仕事をどんどん奪っていきます。機械とテクノロジーは、人間より効率的に、より安く商品を生産するでしょう。その結果、人間はますます働く場を失っていくでしょう。

機械が人間の代わりに仕事をこなすようになれば、当然必要な労働者の数は減ります。しかしそれだけでなく、繰り返し伝えているように、人間は機械のオペレーターとしての仕事を担当するだけになり、単純作業者としての労働しかなくなります。単純作業者のお給料は当然安く抑えられ、さらにまったく経験を積んでいない新人とも同列に扱われてしまいます。

アメリカの文明批評家、ジェレミー・リフキン氏は、著書『大失業時代』の中でこう語っています。「かろうじて職を維持している人々は、賃金や給付の目減り分を補うためもあって、前よりも長時間労働を余儀なくされていく」

資本主義の中では、傾向的に利益率が低下していきます。そしてそのうえで、労働生産性を格段に引き上げるようなイノベーションが起こると、一時的に利益率は下げ止まります。

一般的には、イノベーションの重要性が語られます。景気が悪いのは、イノベーションが足りないからだと。ですが、その考え方はもはや通用しません。現実社会を見渡すと、必死に技術を磨き努力している企業が業績不振に苦しんでいます。一見すると、「まだまだ努力が足りない」「新しい技術を生み出せていない。アイディア不足」と思われるかもしれません。しかしそうではないのです。

マサチューセッツ工科大学の経済学教授 エリック・ブリニョルフソン氏は、アメリカの経済を分析し、こう言っています。経済が停滞しているのは、技術革新のペースがスローダウンしたからだと主張している説に対し、「私たちは、ペースが速すぎて人間が乗りのこされているのだと考える。言い換えれば、多くの労働者がテクノロジーとの競争に負けているのである」

イノベーションが起こらないから苦しいのではなく、イノベーションが速すぎるから苦しいのです。まさに、イノベーションが労働者を苦しめているのです。

まとめ

1.資本主義経済では、生産力が上がることで薄利多売になる。労働者のお給料はどんどん減り、購買力がなくなるため「モノ余り」になっていく。

2.資本主義経済では利益率は下がっていくため、必然的に不景気になる。しかし、不景気によって企業は淘汰され、供給量が調整されていくことに意味がある。

3.供給過剰によって生き残る確率が格段に下がっている。政府の景気対策によって本来淘汰されるものが生き残り、さらに玉石混交になることで、生き残る難易度も上がっている。

4.資本主義経済では、利益を生み出しにくくなると「擬制資本」へと向かう。

5.自由競争が進むことで、より良い商品がより安く手に入るようになる。仕事は分業化され、機械化が進む。そのことで労働力の価値が下がりお給料は減り、逆に資本家の立場はますます強くなる。機械化やテクノロジーの進化によって多くの人が仕事を奪われ、単純な作業のみを担当するようになる。

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■ここであなたにクイズです!

・「モノ余り」の時代になるにつれ、近年、商売(ビジネス)をする上で商品の「在庫」を持つことは非常に大きなリスクを意味します。しかし世の中には、このリスクとなる「在庫」を持たなくても商品を販売できるビジネスモデルも存在します。そのビジネスモデルとは一体どのようなビジネスモデルだと思いますか?

 

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