不況、増税、老後破産。資本主義で”死なない”為に知らなければいけない経済のコト | 生き残るために必要な”考え方”、”敗者”にならないための絶対ルール

資本主義を生き抜く為に知らなければいけない”経済”のコト




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しんどい生き方から抜け出すためには?

 

これまで説明してきたように、企業に雇われる労働者は、構造上、豊かになれません。労働者が受け取るお給料は、言ってみればその労働者が生きていくために必要な経費だけだからです。仕事をするための通勤手当をもらっても、豊かになれないのと同じで、生きていくために必要な金額しかもらえなければ、いつまでたっても「かつかつ」の生活が続くのは当たり前なのです。

ただ、企業がすべて悪いのでしょうか?企業が労働者から搾取して私腹をこやしているからいけないのかというと、そうでもなさそうです。企業は、より激しい競争にさらされ、ビジネスのリスクがより高まっています。今後ますます「命がけの躍進」のリスクは高まります。安泰のビジネスなどはもはや存在しません。

私たちが生きているのは、こんな世の中なのです。これがこの世の残酷なルールなのです。

では、この先に待っているのは絶望しかないのか、しんどい毎日に耐えながら、勤めている企業が倒産しないことを祈り続けることしかできないのかというと、そうではありません。この環境の中で、個人ができることがあります。

ここからは、資本主義のルールをもとに、私たちがこの先、どのような働き方をするべきなのか、生き残るための対策について具体的に考えていきます。

「昇給に依存しない働き方」を勉強しよう

お給料=労働者が生きていくために必要なコスト、というルールが変わらない限り、お給料が大幅に上がっていくことはありません。物価が上がっていけば、生活費が上がるので、それに連動してお給料が上がっていくことは想定できます。しかし、それではお給料が上がっても、商品も値上げされるので、結局意味がありません。額面が変わっても、実質的な収入は変わらないわけです。

今後、かつてのバブル期のように、全体的にお給料が上がっていくことは想定しづらいです。というより、そういうことはまずないでしょう。また、今後は終身雇用も崩れていくでしょう。となれば、長く勤めれば時間とともに収入が上がっていくという世界はないのです。今後、私たちは「昇給に依存しない生き方」を考えていかなければいけません。

「昇給に依存しない生き方」とは、ひとことで言うと「もっと高いお給料」を唯一の目標にしないということです。もっと稼ごうとすることが悪いのではありません。お金だけを目的に考えるのがよくないのです。労働者としてお給料を上げるということは、それだけ必要なコストを費やすということです。労働者のお給料が上がるのは、成果を上げたからではなく、言ってみれば、「生活費が上がったから」です。もしくは、「ストレスが増えたから」です。以前の記事内でも説明したように、「ストレスが高いから、その分お給料が高い」ということなのです。となると、いくら稼いでも、豊かにはなれません。お給料の決まり方のルールが変わらない限り、これは代わりません。

労働者として私たちは、「昇給に依存しない生き方」を目指すべきなのです。思い出してもらいたいのは、お給料を決める「必要経費」として認められるのは「社会の平均」だということです。つまり、「自分は毎日、極上のステーキを食べないと次の日は働けない!」と訴えても聞いてもらえません。しかし逆に、「自分はそれほどいらない」と思っても、社会平均分をもらえるということなのです。ここに労働者が豊かさを目指せる活路があります。

仕事をするときに、かかるコストが社会平均よりも低い仕事を選ぶのです。「ふつう、この仕事に就いたら、これくらい大変だから、このくらいのお金をあげる」と思われているレベル(相場)があります。それでお給料の金額が決まっているわけです。ですが、もし「自分はその仕事をしても、そんなに疲れないから疲労回復費はそんなに必要ない」「そんなにストレスを感じないから、気晴らし代はそんなに必要ない」と思っていたらどうでしょうか?

お給料は世の中の平均で決まりますので、仮に「自分はそんなにコストがかからない」と考えていても、社会平均分もらえるのです。そしてその差額は、自分の利益になるのです。これはちょうど、企業が特別剰余価値を生み出すプロセスと同じです。商品の価値は、社会平均で決まります。「この商品を生産するには、一般的に考えると、50時間がかかる。だから“50時間分の価値”になる」というようなイメージです。

しかしながら、実際にはこの商品をつくるのに60時間かかる人もいれば、逆に40時間で済む人もいます。Aさんが60時間かかってつくった場合も、“50時間分の価値”としてみなされます。なぜなら、それが社会平均だからです。同じように、Bさんが40時間しかかからなくても、“50時間分の価値”と思ってもらえるのです。このとき、Bさんは「特別剰余価値」を得ます。ポイントになるのは、

「社会平均より効率が良いとき」

「社会平均よりコストが少ないとき」

です。その分は、まるまる儲けになります。そして、お給料(労働力の価値)も同じ考え方で決まっていますので、同じ論理が当てはまります。つまり、労働者個人が「特別剰余価値」を得る可能性があるわけです。企業が常に特別剰余価値を狙っているのなら、個人も狙うべきでしょう。

具体的には、こういうことです。もともとを身体を鍛えている人だったら、一日働いてもすぐに体力を回復させられます。他の人は1時間6,000円のマッサージに行かないと疲れがとれないのに、自分は行く必要がない。でも、“社会平均的”にはマッサージが必要だから、その費用がお給料に織り込まれている。自分はマッサージには行かないので、この6,000円分は浮きます。この分を“個人版特別剰余価値”として受け取ることができる。

もともと人に商品を提案するのが好きな人だったら、一日中営業しまわっても、精神的疲労を感じないかもしれません。でも、“社会平均的”には、「営業=精神的ストレスをためる仕事」なので、ストレス発散代として毎日3,000円の営業手当てがつく。だけど自分はストレス発散の必要がない。だから、この3,000円は浮きます。それを“個人版特別剰余価値”として受け取ることができる。

要は、社会一般と比べて自分が“低コスト”でできる仕事を選べば、そこに“個人版特別剰余価値”が生まれるということなのです。このような“個人版特別剰余価値”を生み出せる考え方を、「自己利益」と表現します。

「自己利益」を増やすという考え方

自己利益とは、企業の「会計」と同じように考え、「売上」ではなく、「売上から費用を差し引いた、利益」を重視する考え方です。企業が目指すべきは「利益」です。売上ではなく、「利益」を稼ぐことが目標です。

いくら売上を上げても、売上を稼ぐ以上にコストをかけてしまえば、赤字になります。そして、営利目的の企業にとって、「赤字=目的を達成できていない」ということになります。将来的な黒字が見えているのなら別ですが、基本的には「赤字ビジネス=やらない方が良いビジネス」となります。

そして、この企業の収支についての考え方は、個人の「収支」にも当てはめて考えるべきです。個人の目的も「売上」ではなく、売上から費用を差し引いた「利益」であるはずです。

いくら「売上」を増やしても、その売上を稼ぐのに多額の「コスト」がかかってしまえば、利益はマイナスになります。企業の会計で利益がマイナスになってしまえば、そのビジネスはやらない方が良いのと同様、個人でも「利益がマイナス」になるのであれば、やらない方がマシなのです。どういうことか、説明します。

企業の場合、目的である利益は「収入-費用=企業の利益」という計算式で表現できます。そして、個人の場合もこれと同じように考えることができます。ます、仕事に関しての話に限定すると、個人の場合、企業の「売上」に相当するのは「年収」です。そして、「費用」にあたるものは、その年収を稼ぐためにかかる身体的、精神的コストです。いわば、その仕事を続けるための必要経費です。そしてここでは、この「年収」と「必要経費」の差を「自己利益」と呼びます。企業において「利益」に該当するものを、個人の生活では「自己利益」と定義します。

「年収」-「必要経費(肉体的・時間的労力や精神的苦痛)」=自己利益 

です。いくら稼いでも、どんな良い役職についても、最終的にこの自己利益がプラスにならなければ、意味がありません。「100万円欲しい?」と聞かれたら、ほとんどの人が「Yes」と答えるでしょう。しかし、「100万円上げるから、1年間奴隷になってください」と言われたら「No」ですね。なぜなら、100万円もらうことに対して、「1年間奴隷になる」というコストが高すぎるからです。「自己利益」がマイナスになっているので、「No」と答えるのです。この例では、誰もが「自己利益」を考え、提示を断ります。ただし、人が常に「自己利益」を意識しているとは限りません。

「年収1,000万円稼ぎたい!」と考えて、激務に従事する人がいます。年収1,000万円をもらえる仕事は、かなりの激務です。まず間違いなく長時間労働でしょう。そしておそらくプレッシャーもかかるので、精神的にもストレスを感じるでしょう。この年収1,000万円の仕事を継続するためには、必要経費が高いのです。そして、もしかしたらその「必要経費」は1,000万円以上かもしれないのです。

その激務も楽々こなせるようなスーパーマン・スーパーウーマンであれば問題ありません。ですが、それ以外の人でも「年収1,000万円の仕事がありますが、やりますか?」という提示をされると、ほとんどの人が即答で応募してしまいます。1,000万円を得るのに、自分はどれほどのコストを支払わなければいけないのかを考えず、「年収1,000万円が欲しい!」と考えてしまうのです。

もちろん、目標を持ちそこを目指して頑張ることは大事です。しかし、年収1,000万円の仕事をしていることで、身体を壊し、精神的に極度のストレスを抱え、通常の生活もままならなくなる場合があります。日本では、仕事を苦にして自殺に追い込まれてしまう人が毎年大勢います。年収や満足感を得るための仕事でしたが、その仕事を継続するためにかかるコストが大きかった、そのための結果として「自己利益」はマイナスになってしまった。仕事を苦にした自殺は、その典型例です。

企業では1,000万円の売上をあげても、そこに1,500万円かけてしまえば「赤字」で「意味がない」となります。個人の働き方に関しても、最終的に「赤字」になってしまえば、意味がないと考えるべきではないでしょうか?

生きていくうえで、目標を持って「上」を目指すことは大事なことです。ですが、その目指すべき「上」とは、企業でいえば売上ではなく利益であるはずです。「売上は倍になりました、でもそのせいで赤字に転落しました」では意味がないのです。

個人の仕事においても同様です。自己利益がプラスでなければ、どれだけ年収を稼いでも、どれだけ満足感を追い求めても意味がありません。年収アップだけを考えて仕事を探してはいけません。その仕事から得られる収入と、その仕事にかかる(自分の)必要経費を比較して、その差額である「自己利益」を増やすように職探しをすべきなのです。

世の中の労働者が二極化する

これまで、「自己利益」の重要性を説いてきました。しかし、将来的に考えると、自己利益の考え方だけでは問題は解決できなくなります。というのは、これからお給料の絶対額が極端に下がっていく可能性があるからです。今後、労働者は、稼げる人稼げない人に二極化していくでしょう。自己利益を目指せるのは、あくまでも最低限の金銭的な収入がある人だけです。ほとんど収入がなければ、そもそも「自己利益を黒字に!」も目指せません。

なぜ労働者が二極化するのでしょうか?労働現場が機械化・テクノロジー化すると、人間の労働が単純になり、体力も必要なくなります。必要な予備知識も減ります。ここで労働力の価値が圧倒的に下がるのです。だから、これまでと同じように「労働力の価値」を基準にしてお給料を受け取っていた人は、どんどんお給料が低下していくのです。

かつて、産業革命の影響で、機械設備が高度化したとき、多くのブルーワーカーが仕事を失いました。機械でできる仕事をしていた人たちが、機械との競争に負けたのです。現在、「労働力としての機械」がさまざまな分野に進出しています。機械の性能が良くなった結果、さまざまな仕事をできるようになり、その結果、多くの労働者が機械との競争にさらされています。

一度仕事が機械化されると、その機械を使って、新たな機械を発明し、加速度的に機械化が進行していきます。このとき、機械ができる仕事をしていた人たちはごっそり仕事を失うのです。もしくは、機械が導入されたことで、必要な労働者が半分になれば、半数は失業するのです。そして今後、人間は機械(ハードウェア)との競争だけでなく、テクノロジー(ソフトウェア)との競争にもさらされていきます。

ここで労働者の二極化が起こります。テクノロジーで代用できる労働をしている人と、そのテクノロジーを生み出し、コントロールする人の二極です。テクノロジーに使われる側と使う側です。

これから、ほぼすべての仕事にテクノロジーが入り込んできます。最初は誰もが「自分の仕事は大丈夫だろう」と考えます。「この仕事は、経験がものを言うから」「この職業は人脈が命で、テクノロジーに人脈は作れない」「人間の発想力にはかなわない」と考えるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?

1997年、チェスの世界チャンピオンが、機械に敗れました。人間の思考力がソフトウェアに負けてしまったのです。AI技術(人工頭脳の技術)も、日々進化しています。簡単な会話であれば、スマホのアプリでも可能です。人間の感情を揺さぶるキャッチコピーをつくるにも、テクノロジーが膨大なデータを収集して解析すれば一瞬で「正解」を導き出せる、という時代がやがてくるでしょう。人間を感動させる小説さえも書けてしまうかもしれません。

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という言葉がありますが、これはじつは、「人間が想像できることは、テクノロジーが実現できる」ということです。それくらいテクノロジーの進歩は急速に、しかも際限なく進んでいくのです。

私たち人間の労働者が考えなければいけないのは、テクノロジーを生み出し使う側にいくか、テクノロジーに使われる側になるか、ということです。機械・テクノロジーがライバルになる仕事はお給料が圧倒的に下がります。一方で、その機械・テクノロジーをつくり出し、管理・運営する側の人は給料が下がりません(むしろ上がるかもしれません)。今後、使われる側にいくのと、使う側にまわるのとでは、大きな違いが生まれるでしょう。知らず知らずの間に、「テクノロジーに使われる側」にいってしまえば、あなたのお給料は際限なく落ちていきます。

何度も繰り返しますが、労働者のお給料は「労働力の価値」に基づいて決まっています。そして、テクノロジーが進化した世の中では、労働力の価値は極端に低下します。生きていくために最低限の収入で、もしくは、それ以下に引き下げられて暮らしていかなければいけなくなる可能性も十分あるのです。

テクノロジーの進歩は目覚しく、ますますスピードアップしています。こうなると、いつ「テクノロジーに使われる側」に堕ちるかもわかりません。そこから抜け出すためには、雇われ労働者から抜け出すことです。それが現代の労働者が『資本主義』から学び取れる教訓なのです。

非正規・フリーランスが主流になっていく時代

総務省の「労働力調査」(2014年)によると、「非正規雇用」の割合が37%を超えました。アメリカの数字ではありません。これは日本社会の状態です。そしてこれからも、この流れは継続します。それどころか、ますます加速していくでしょう。非正規雇用が進む理由を、資本主義の考え方から説明することができます。

もともと企業が生産した「モノ」が「商品」になるためには、「命がけの躍進」をしなければいけませんでした。そしてこの「命がけの躍進」に挑んだときの「生存率」は、資本主義が成熟するにしたがって下がっていきます。資本主義が成熟するにつれ、企業は薄利多売を強いられていきます。そして同時に、労働者のお給料が減っていくため、購買力が失われていきます。また、世の中に商品があふれていくので、すでに消費者としては欲求を満たされ、新たに買いたいものが減っていきます。

企業は、利益を稼ぐためにより多くの商品を売らなければいけない。しかし、すでに世の中に商品が大量に供給されている。消費者はもう買う必要がない。また、そもそも購買力が低下しているので、買う余裕もない。だから売れなくなるのです。もちろん、無事に買ってもらえる商品もありますが、確率的には下がっています。ビジネスのリスクがどんどん高まっているわけです。 

この状態が継続し、供給過剰が極限まで進むと恐慌が起きます。ただ、企業が何もせずじっと倒産を待つはずはありません。企業は少しでもリスクを下げることを考え始めます。商品が売れないリスクが高まるので、他の部分でリスクを下げようと策を練ってきます。

そこでまず考えられるのが、固定費を下げるということです。ビジネスは固定費が高くなると、倒産リスクが高まります。売上が減ったときにコストを支払えなくなるからです。そして、企業の固定費の大きな割合を占めるのが「人件費」ですね。これを下げようとする動きは必然的に出てきます。人件費を下げると言っても、必要な人員は確保しなければいけません。そこで当然の選択肢として出てくるのが、「非正規雇用」なのです。

非正規雇用であれば、仕事があるときにだけ雇い、商品の売上が立つときにだけ人件費を払えばいい。売上に連動してコストを管理できますので、企業にとっては非常に魅力的な制度です。資本主義経済が成熟してくれば、「命がけの躍進」のリスクがますます高まるのは必然です。その中で、リスクを抑えたがるのも企業としては当然の発想です。つまり非正規雇用は、資本主義が発展するにしたがって、当然の流れとして出てきた形態なのです。

フリーランスで働く人が増えてきているのも同じ理由です。フリーランスで働く人が増えているのは、「フリーで働きたい人が増えているから」という労働者側の理由の前に、「内部に人材を抱え込まずに、外部のフリーランスの人に仕事を外注しよう」という企業側の考えがあるからです。もし企業がフリーランスで雇いたいと思っていなければ、そもそもこの労働形態自体が浸透しなかったでしょう。今後も、正社員ではなく、非正規雇用・フリーランスで労働力を確保する企業は増えていきます。これは当然の流れなのです。

「出来高制の賃金」の方が、企業にとっては都合がいい

ここまで、「お給料=労働者が明日も仕事ができるようになるためのコスト」として説明してきました。この「出来高制の賃金」とは何か?これは現代で使う意味と同じで、「商品を1個つくったら1個分のお給料を出す、10個つくったら10個分のお給料を出す」という給与体系です。

資本主義では、このふたつの賃金形態を本質的には同じと捉えています。ただ、出来高制賃金は、労働者に対して成果物の質も要求するという点で、より資本家に有利な制度と位置付けています。

つまりこういうことです。「お給料=労働者の生活費」と捉える場合、その労働者の能力や労働の質は問われません。ですが、出来高制の場合、成果物が無ければお給料は支払われません。となると、中途半端な仕事をしている人には払わなくていいことになります。またこれは、労働者の能力不足、スキル不足は労働者本人が克服するように仕向けていることになります。あくまでも「結果」でお給料を支払うことになるわけです。つまり、この「出来高制」は、単純にもともと労働時間で考えていたお給料を、商品で割り算して「1個当たりのお給料」を決めていたにすぎません。

たとえば、もともと「1日8時間働き、日給8,000円」だったとしましょう。そして平均的に労働者は1日に4個、商品をつくれます。このとき、出来高制のお給料で考えると、商品1個当たり2,000円になりますね。これを「じゃあ、1個できたら2,000円」とお給料を払うのが出来高制です。

「1個あたり」に変わっていますが、その前提となるお給料の算出方法、考え方は変わっていないのです。そのうえで、さらに人並みの成果が出せず、一日に2個しか生産できなければ、「じゃあお給料は4,000円だけね」と、お給料を減らせる仕組みです。

自主的に長時間労働をして、人並み以上の成果を出せば、それだけお給料を増やすことはできます。ただ、商品1個あたりの“搾取幅”は変わりません。お給料を2倍にするためには、2倍の時間働かなければいけないのです。そういう意味で、資本家に有利で、資本主義の中ではこの出来高制を「より資本家の搾取を強める方式」と捉えています。

現在、一部の企業で採用されている「実力主義」「成果主義」も同じ要素が見えます。たとえば、「実力次第で、20代で年収3,000万円も夢じゃない!」としている営業企業があります。制度としてはもちろん事実なのだと思います。ただ、一方で基本給が恐ろしいほどに低く抑えられています。つまり、「実力がなく、売れないやつは最低レベルのお給料まで落とす」ということです。この方が企業のリスクが減り、経営がしやすいため、今後このような給与形態が拡がる可能性が高いです。これは労働者としては非常に恐ろしいことです。というのは、企業に都合がいい評価形式になるからです。

お給料の単価(時給・日給)は、労働力の価値で計算されます。その労働者が一日生きていけるだけのお金が「日給」になり、それを基にお時給や「商品をひとつ販売するといくら」という単価が決まります。ここにはその人材の実力は考慮されていません。実力が考慮されずに、時給・成果給などの“単価”が決まります。

そして一方で、成果に対して実力が考慮され、能力がない人は給料を減らされていきます。または、人並みの成果が出せるまで、長時間労働をして、自分でカバーすることを暗に強要します。つまり、お給料の単価は、「労働力の価値」で決められる一方で、企業が望む「使用価値」を出すことも労働者に求めているのです。実力主義、成果主義といえば、「頑張れば頑張るほど報われる制度」に見えます。しかし、じつは労働者がより多くのリスクを引き受ける制度です。

この制度で怖いのは、企業が望む成果が恣意的(しいてき=好き勝手に)に変えられてしまう可能性があるということです。簡単に言うと、ノルマの基準を変えられてしまう可能性があるのです。昨日までは「一日8個生産すればOK」としていたのに、いきなり「みんな慣れてきただろうから、今日からノルマを10個にします。10個つくれたら、一日分のお給料を払います」と言われてしまうのです。

企業に対して使用価値を発揮できなければ、そもそもその労働者は雇ってもらえません。企業に利益をもたらすことは不可欠です。しかし、そのノルマ(期待される使用価値)の基準を握っているのが企業である以上、いつまでたっても労働者の立場は強くなりません。この制度にハマってしまうと、労働者はますます自分の時間を売らなければならず、ますます立場が弱くなっていきます。こうなる前に、自分で対策をとらなければいけません。

これからの時代は「資本の分散」が増えていく

また非正規雇用・フリーランスとしての働き方が浸透していく、もうひとつの理由があります。これは、『資本主義』とはまったく逆の流れです。

企業は、生産性を上げようと努力します。しかし、ひとりではできることに限りがあります。生産性を上げるには、より高度な機械設備を導入しなければいけません。しかし、単体での資金力ではそこまで性能がいい機械を導入できない。そのときに合併し、資本を集中させるのです。そうすれば生産性を上げることができますし、また合併したA社とB社で重複している業務を削ることができます。その意味でも業務が効率化します。

このように、資本主義では、企業が生き残りをかけて合併を繰り返し、最後は巨大企業が誕生すると考えていました。たしかに、10年ほど前までは、銀行が合併したり、小売店が合併したりしていました。巨大化することで利益を稼ごうとしていたのです。

しかし、これからは、合併することでは利益を増やすことができず、むしろ固定費を増やし、リスクを高めてしまいます。命がけの躍進リスクが高まっていく中で、母体を大きくすることはむしろ経営にマイナスに作用するのではないかと思います。「より生産性を上げるためには、より資本(お金)が必要としていた前提」が崩れ始めているのです。

現代では、個人の資金力でも、相応の技術を扱うことができます。もちろん、自動車、飛行機、ビル建設、医薬品開発など巨大資本が必要なビジネス分野もあります。ですが、個人がたったひとりでワンルームマンションにこもって商品をつくり上げることも可能なのです。

デルコンピュータが創業されたのは、ガレージの中でした。フェイスブックはひとりの学生が立ち上げました。楽天も、最初はたった5人の会社でした。製造技術も、個人がちょっと頑張れば出せるくらいのお金で買えるようになっています。3Dプリンタが実用化されれば、個人の集団が巨大資本を持つメーカーと対等に渡り歩くことも現実味を帯びてきます。小資本でも問題ありません。むしろ小資本の方が機動力を活かして活躍できるかもしれません。利益率を上げるために大企業家するという流れは、もはや当てはまらず、逆に効率性を求めてスリム化していくのが今後の流れなのです。

「企業に依存しない=他人のビジネスモデルに依存しない」マインドが必要な世の中

資本主義が成熟すれば、商品が売れ残るリスクが高まります。そのリスクを減らすために、企業はいろいろな策を講じていくでしょう。その一環として、固定費を減らしていく動きは必然です。

これから数十年したら、正社員や終身雇用という雇用形態の方がむしろ稀になっていくでしょう。ほぼすべての人が“半雇用者”となっていると思います。「期間雇用」になり、「非正規雇用」になります。そして、半ば強制的な流れで「フリーランス」「個人事業主」という労働形態に追いやられていくでしょう。

非正規雇用というと、企業に虐げられている工場のライン労働者をイメージするかもしれませんが、これからは変わります。オフィスワーカーもプロジェクトごと、仕事案件ごと、もしくは数年間で仕事を変えるような社会がやってきます。そうだとしたら、労働者はそれに対して備えなければいけません。何を、どう備えればいいのか?なぜ備えなければいけないのか?

フリーランス・マインドで働くとは、文字通り「フリーランスのつもりで働く」ということです。それはつまり、サラリーマンの評価体制から抜け出すということです。そして、資本主義の商品の原則に立ち返り、労働力を「商品」として見直すことです。商品として自分の労働力を見直し、価値と使用価値を問い直すということです。

労働者のお給料は、労働者が上げた成果と(ほぼ)関係なく決まっていました。だから、労働者が2倍の成果を上げても、お給料は2倍にならないのです。そして同時に、労働者が半分の成果しか上げられなくても、お給料が半減することはありません(あくまでも一般論です)。

どんな商品をつくるかは企業(資本家)が決め、その決定にしたがって労働者が動きます。労働者は決められた業務をこなすことが仕事で、商品が売れなかったときの責任を全面的に取らされるわけではありません。どんなに頑張って商品をつくったとしても、それがまったく売れなければ企業は損失を抱えることになります。しかし直接的にその責任を取るのは、企業(資本家)であって労働者ではありません(損失を抱えたことで、労働者がクビになることはありますが、「おまえたちが作った商品が売れなかったから、赤字を補てんしろ」とは言われません)。

使用人としての労働者から抜け出すということは、労働者として保護されてきた場所からも抜け出すということです。「命がけの躍進」というリスクを引き受けなければいけません。フリーランス・マインドで働くということは、実際にフリーランスになるということに限らず、「労働力の価値ではなく、労働力の使用価値で評価を受けること。その覚悟を持つこと」です。つまり、成果が出なかったら相応の責任を取らなければいけないということです。「自分は与えられた業務をこなしています。その結果、利益が生まれなくても知りません」とは言えなくなるのです。 

サラリーマンは、労働力の価値でお給料をもらってきました。つまり、どのくらいの成果を生み出すか、どれくらい企業(資本家)に対して貢献するかは関係がありませんでした。正社員であれば、入社の面接時に一度だけ認めてもらえれば、後は成果を出さずともお給料をもらい続けることができます。

この状況に甘んじて、まったく仕事(成果を出す仕事)をしていない人が、どれほど多いことか。労働力も商品です。本来であれば、「使用価値」がなければ商品を買ってもらうことはできません。しかし日本では今のところ、使用価値を発揮せずに会社にぶら下がることができます。労働者が正社員として働く場合、その労働力の使用価値が問われるのは、採用面接時の一度だけです。労働力は日々売っていますが、「命がけの躍進」は一度しか行いません。

ただ、これは終身雇用が前提の正社員だったからです。これからは「正社員」「終身雇用」の時代ではありません。「一度雇ってもらえたら安泰」という時代ではありません。私たちは常に「失業」に直面しています。そして常に、新しい仕事に応募しなければいけないのです。仕事を変える度に、採用面接で自分の労働力を売り込むことになります。そして、企業(資本家)に使用価値を認めてもらえれば採用、そうでなければ不採用となります。企業(資本家)にしがみついても、その企業自体(資本家のビジネスモデル自体)がどんどん沈んでいきます。

また、望んでも、望まなくても、雇用の流動化は進みます。自分が終身雇用を望んでいても、もはや難しいのです。だとしたら、労働者としての私たちに必要なのは、今の職場がなくなったときに、次の仕事をすぐに見つけることです。今いる企業に(過度に)依存せず、自分の能力を使って社会を渡り歩くことです。要するに、労働力の「使用価値」を評価してもらい、使用価値に基づいてお給料をもらうべきなのです。では、そのために必要なのは、何でしょうか?次回から詳しく説明していきましょう。

まとめ

1.社会平均より低コスト・低ストレスでできる仕事を選ぶ。収入と必要経費のバランスを考え、「自己利益」をプラスにする。

2.テクノロジーの進化により、この先、労働者は二極化する。機械にできる仕事をしている人は仕事を失うので、テクノロジーを「使う側」にまわる。すなわち、雇われ労働者から抜け出すこと。

3.この先、企業(資本家)は固定費を下げるためにスリム化していき、「非正規雇用」「出来高制」を増やす。労働者は自分の労働力を見直し、「使用価値」で社会を渡り歩く覚悟を持つこと。

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■ここであなたにクイズです!

・これまで説明してきたように、企業(資本家)に雇われる労働者は、構造上、豊かになることができません。そして、これから先、テクノロジーの進化により労働者は二極化していくとも説明しました。しかし、「テクノロジーを使う側にまわらなければいけない」と言われても、なかなかその方法を見つける事ができないのも現実です。仮にあなたがもし「テクノロジーを使う側」にまわることができたなら、それはどういう生活を手にする事が出来ると思いますか?

 

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